鬼海弘雄さんの写真集『PERSONA』に見たもの[編集人ブログ]
[追悼]『PERSONA』シリーズに見たファッションの深度
「写真家」を目当てに買った初めての写真集
写真家の鬼海弘雄(きかい ひろお)さんが先週亡くなられたそうです。
一方的に存じあげていただけですが、密かに「いつの日か仕事をご一緒できれば……」と思っていた写真家さんでした。でも自分の仕事の多くは良くも悪くも“ファッション”なので、リアルを追求している鬼海さんとの関連性を見つけることは難しく、なかなか難しい夢でした。
編集者の知人から「体調が悪くて厳しいようだ」という話は聞いていたので、訃報は気持ち的に受け入れられたのですが、自分にとっては少し特別な存在の写真家さんだったので、ここに書いておきたいと思います。
ちなみに自分は「写真論」のようなことは語れませんので、あくまで「感想」としてお手柔らかにお読みください。
2冊の『PERSONA(ペルソナ)』
自分は熱心に写真集を買うタイプではないですが、鬼海さんの『PERSONA(ペルソナ)』(草思社)と、昨年刊行された『PERSONA 最終章』(筑摩書房)という2冊の写真集を持っています。
『PERSONA』を買ったのは2004年。当時そこまで「写真」に対して興味がなかった自分でしたが、テレビか何かで鬼海さんが特集をされているのを見て、すぐにAmazonで注文しました。(Amazonの購入記録機能は便利です。結構最近のことのような気がするけど、もう16年も前……)
それは自分にとっては初めての「写真家目当て」で買った写真集。価格は¥9,500+税。当時の自分が1万円もする写真集を買ったのは不思議な気もしますが、豪華な装丁、印刷のクオリティ、自分でも何度も見て、近しい人にも見せたりしたので、納得の価格でした。ずっと大事に保管していましたが、改めて見返したら「第1刷」。あまり沢山印刷しなかったらしく、今や古書市場でも随分値上がりしているようです。
お亡くなりになったことを受けて、家で写真集を見返しながら、なぜ当時の自分が鬼海さんの『PERSONA』にここまで惹き寄せられたかを改めて考えてみました。
『PERSONA』とファッション
この写真集には無名の市井の人々がモノクロームの写真で多数登場します。まさに“PERSONA”というタイトル通りの個性豊かな方々、鬼海さんと被写体の人のやりとりや距離感まで伝わるような短いキャプション(時には失笑してしまう)にも心を奪われましたが、自分がその中で熱心に見ていたのは、「人間と服装の関係」だったのかもしれない、と改めて気付きました。
浅草の浅草寺の壁で撮られた『PERSONA』の被写体の皆さんの多くは、社会的には少し浮いた雰囲気の方々です。失礼ながら経済的にも人間関係的にも、あまり上手く行っているようには見えない人も多い。
そういう「この人はどうやって生きてきたんだろう」と想像せずにはいられない人々のポートレートの数々には、「人間」とか「人生」みたいなものを考えさせられたのは確かですが、そういう方々の服装も実に独特で、自分はどこかその人たちの服装とパーソナリティの関係を中心に見ていた気がします。
これは憶測ですが、鬼海さんは実はファッションにも高い興味をお持ちだったのではないでしょうか。「普通じゃない人」を見抜くには、「普通の服装」を知っている必要があるからです。鬼海さんがフィルムに収めた方々は、表情と服装のバランスが噛み合わさることでインパクトが出ている作品が多いと思います。
何かを着るということは、その人の個性だけでなく、社会性や客観性の表現でもあります。「こうありたい」、「こう見られたい」、あるいは「見られることがまるで気にならない」という内面も服装には現れます。自分はそういうところに服を見る面白さを感じている人間です。
学生時代にはコレクション会場などのストリートスナップ誌『STREET』をよく買っていました。(そして今も刊行されていることに改めてリスペクトです) 『STREET』誌のファッションや人物は、個性的で刺激的です。特にトレンドを飛び越えたような、「俺(私)はこれが好きなんだ!」というスナップには、「着こなす」ということを教えてもらった気がします(まるで自分はそのオシャレ域にはないですが)
比べるものではないかもしれませんが、自分にとっての『PERSONA』にはどこかそれ(『STREET』誌)を見ているのに近い感覚がありました。
ただし『STREET』の場合、個性的で奇抜であっても「ファッション」に結びついていますが、『PERSONA』における人々の個性的な服装は、「ファッション」とはほぼ対極。それでも「お洒落」であり、「自分はこの服装が好き」という自信や「服を着こなしている」という点では共通しているのです。
では、その違いは何なのか?
それは被写体の人の「服に対する興味」や「情報量」、それから「自分を客観視できているかどうか」ということにもなるのでしょうが、鬼海さんが厳選に厳選を重ねてフィルムに収めた人の服装は、その多くが実に自由であり、堂々としているので、惚れ惚れとしてしまうのです。特にハッとさせられるのは、小物使い。帽子やサングラス、スカーフの使い方は、ちょっと真似できない格好良さを感じる人が多いです。この辺は「ファッションとスタイルの違い」みたいなものすら感じてしまいます。
かつてほどではありませんが、ファッションにはいまだにルールごとや「トレンドかどうか」がつきまとっています。まがりなりにもファッションメディアを運営し、「トレンド」に身を置く人間としては、そこにある程度敏感でありたいし、ファッションのクリエイションや流行の流れは見ていて楽しいと思います。でも、ふと『PERSONA』の写真を繰っていると、ふと、「なんかそういうの、どうでもいいかもな……」という思いもよぎるのです。「服なんて好きなの着てればいいじゃん」。『PERSONA』に出ている方々の写真からはそういう声が聞こえてきます。
どこかで「社会性」を気にしながら服を選んだりしているのって疲れるよな、と言ってしまうと“ワンランク上のスタンダードを探す”メディアの編集人として身も蓋もないわけですが、どこかにそういう気持ちを持っておきたい、と思わせてくれるのが鬼海さんの『PERSONA』の写真なのでした。
2冊の『PERSONA』の間に横たわるもの
2冊の写真集を見比べてみると、1990年代後半から2003年までの写真が掲載されている『PEROSNA』のファッションと、2005年から2018年の写真が掲載されている『PERSONA 最終章』のファッションでは、“パンチ”という点で少し違いがあるように感じます。
やっぱり“強い”と感じるのは最初の『PEROSONA』で、時代が近いせいか『PERSONA 最終章』の人物の服装には多少の“洗練”を感じてしまいます。それは浅草という街が一時よりも随分と観光客が増えてきて「そういう人」が減ってしまったこと、市販服そのもののボトムアップ(安価な服でも十分なクオリティがある)などもありそうな気がします。いみじくも鬼海さんが「もう浅草で撮りたいと思う人が少なくなってしまった」というようなことを語っていた記事を読んだのですが、その違いはこの2冊にも少し現れているような気がします。それが良いことなのか、悪いことなのかは分かりませんが。
最後にひとつだけ。できれば『PERSONA 最終章』は、『PERSONA』と同じ判型で出して頂きたかったなと思います。出版社も違うし、コストの問題もあったかもしれません。あるいは鬼海さん本人のご指示だったのかもしれませんが、やっぱり同じシリーズは判型が揃っていた方が嬉しいもの。サイズが違う(小さくなる)だけで、なんだかインパクトが薄れてしまう気がするのは僕だけでしょうか。
それでも『PERSONA 最終章』も十分見応えはありますし、まだAmazonなどでも販売中なので、未見の方にはぜひ見て頂きたいと思います。今後、写真としてはもちろん、歴史的、社会学的な価値も出てくる写真集だと思います。
まったくもって勝手な感想を書いてしまいましたが、改めて鬼海弘雄さんのご冥福をお祈りしたいと思います。(武井)
Related articles
あわせて読みたい記事はこちらから!
Editorial
Editorial
Mail magazine
購読はこちらにアドレスを入力するだけ。
お得な情報や厳選した記事を中心に
程よい頻度でお届けします(月2回程度)